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争いのない世界へ 僕が諦めずに願い続けている小さな希望について

  • 4月24日
  • 読了時間: 6分


「争いのない世界」と書き始めるだけで、少し気恥ずかしさが湧いてきます。


理想論、きれいごと、夢物語。


そう切り捨てられる覚悟をしながら、それでも、この言葉を真正面から書いてみようと思います。


なぜなら、僕は、この言葉を諦めたくないからです。


世界では、今この瞬間も、戦争や紛争が続いています。

ニュースを開けば、誰かが誰かを傷つけ、誰かが泣いている映像が流れます。

そういう現実を前にして、「争いのない世界を目指します」などと言うのは、あまりにも無力で、無責任に響くかもしれません。


僕自身、自分がそんな大層なことを言える立場の人間だとは思っていません。


一介の個人として、特別な力もなく、ただ日々を生きているだけの存在です。


けれども、だからこそ、一人の個人として、この願いを持ち続けることには、意味があるのではないかと思うのです。


争いは、国と国の間だけで起こるものではありません。


職場の中で、家族の中で、友人関係の中で、そして自分自身の内側で。僕たちは日々、さまざまな規模の争いを抱えて生きています。


大きな戦争も、こうした小さな争いの延長線上にあるのではないか、と考えるようになりました。


もし、僕たち一人ひとりが、自分の身の回りにある「小さな争い」に丁寧に向き合えたら。少しずつ、世界全体の空気も変わっていくのではないかな。


そんな希望を、僕はまだ手放せずにいます。


自分の内側にある争いに気づいたのは、数年前のこと。

私は、長いあいだ、自分自身を責める癖を持っていました。


失敗したとき、誰かを傷つけてしまったとき、うまくいかなかったとき。「どうしてちゃんとできないんだ」「私はダメな人間だ」と、心のなかで自分を厳しく叱責していました。


ある日、ふと気づいたのです。これは、自分に対する「争い」だ、と。

自分の内側に、常に戦いの声が響いている状態。


そこから生まれる言葉や行動が、周りの人を穏やかにするわけがありません。


自分を責めている人は、気づかないうちに、他者にも厳しい基準を押し付けてしまうものです。

僕もまた、自分に厳しかったぶん、周りにも厳しかったと気づいたとき、少し背筋が寒くなりました。


それからの僕は、自分の内側にある争いを、少しずつ鎮めていく時間を持つようになりました。

自分を責める声が聞こえてきたら、「ああ、また始まったな」と氣づいて、「すー」っと息を整える。


完璧を求めすぎている自分に気づいたら、「これでいい」と小さく呟いてみる。


この作業は、正直に言えば、とても時間がかかります。

数日でどうこうなるものではないし、今でも完璧にはできていません。


けれども、以前より自分を責める回数は減ったし、減ったぶん、周りに対しても少し優しくなれた氣がします。


争いのない世界というと、多くの人は国際政治や大きな社会問題を思い浮かべるでしょう。もちろん、それらも大切です。


けれども、僕たち一人ひとりが変えられる範囲のことは、実はもっと身近なところにあるのではないかと思うのです。


家族との会話で、責めるのではなく話を聴く姿勢を持つ。

同僚との行き違いで、勝ち負けを求めずに理解を求める。

自分自身に対して、もう少し優しい言葉をかける。


こうした小さな選択の積み重ねが、遠く大きな平和に繋がっている、と信じることは、無責任ではないと思うのです。


僕がつくりたいミロクの郷は、訪れた人が、自分の内側の争いを、そっと降ろせる場所であってほしいと願っています。


社会で生きていれば、どうしても鎧を身につけざるを得ません。

誰かと比較されないために、誰かから攻撃されないために、私たちは常に警戒を強いられます。

その鎧が、氣づかないうちに、自分自身を内側から傷つけていることもあります。


せめて、ミロクの郷に身を置いている時間だけは、その鎧を下ろしていい。


評価されず、比較されず、責められない時間を過ごす。

その経験が、帰ってからの日常のなかで、少しずつ違いを生んでいく。


もちろん、これは甘い夢のような話ではありません。


一度場所を訪れただけで人生が劇的に変わる、なんてことはほとんどないでしょう。

けれども、種をまくことの意味は、確かにあると思うのです。


まいた種がいつ芽吹くかは、誰にもわかりません。

5年後かもしれないし、10年後かもしれない。


あるいは、芽吹かないまま土に還っていくこともあるでしょう。

それでも、まくことに意味がある。

争いのない世界なんて来ない、と笑うのは簡単です。

実際、その可能性は小さいかもしれません。

けれども、その可能性がゼロではない限り、僕は信じ続けたいんです。


ここでひとつ、誤解を避けたい点があります。

「争いのない世界」と言うとき、私は「意見の違いがない世界」を目指しているわけではありません。


むしろ、意見の違いは、健全な社会に不可欠だと思っています。


僕が目指したいのは、「違いがあっても、相手を否定せずに対話できる世界」です。


つまり、「不一致団結」


あなたはそう考えるのね、私はこう考えるよ、と、お互いの差異を尊重しながら言葉を交わせる世界。

これは、争いがないのではなく、争いを対話に変換できる世界、と言ったほうが正確かもしれません。


そのためには、まず自分が、異なる意見に対して反射的に防御する癖を、少しずつ手放していく必要があります。

これは簡単ではありません。

批判されたら反撃したくなる、否定されたら否定し返したくなる。


それが人間の自然な反応です。

その反応を一度止めて、「この人は、なぜそう思うんだろう」と興味を向ける。

その転換が、対話の始まりです。


こうした練習は、静かな場所で、自分自身と向き合う時間のなかで育っていくと、僕は感じています。

だからこそ、「場の力」を信じているのです。


この記事を読んで、「そんな綺麗事を言っても、現実は変わらない」と感じる方もいらっしゃるでしょう。

その感覚は、正直で、大切です。


僕自身、そう感じる瞬間が何度もあります。


ただ、綺麗事を諦めてしまったら、何が残るでしょうか。

汚いものに染まっていくか、無関心になっていくか。


どちらの道も、僕は選びたくありません。


綺麗事だとわかっていても、口にし続ける。

願い続ける。


そのささやかな抵抗が、僕にできる数少ないことなのだと思っています。


次の記事では、「自然はすべて用意してくれている」という、もう少し優しいテーマに戻ります。


争いを考えた後に、自然からの贈り物について考える。


そういう順番にしたのは、争いの疲れを、自然は癒してくれるからです。


今日も、長い文章を読んでくださって、本当にありがとうございます。


あなたの今日が、少しでも穏やかでありますように。


そして、あなたの内側にある、ささやかな願いが、どうか灯り続けていますように。


Miroku



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この記事を最後まで読んでくださったあなたは、きっと、今の社会に対して何か違和感を持ち、「本来の在り方」を探している方なのではないかと思います。


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